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世界とその中にあるすべてのものを創造した神は、天地の主であるから、人の手で造った神殿に住むのではなく、また、何かを必要としているかのように人の手によって仕えられることもない。神自らがすべてのものに命と息とすべてのものを与えておられるのである。
使徒言行録 17:24-25
福音は信じるすべての人々の救いのための神の力です
これは、聖書、すなわち聖書の中で、使徒パウロがローマ人への手紙(ローマ人への手紙 1:16)の中で述べていることです。
私たち人間は限られた存在であるため、福音の範囲と意味を部分的にしか理解できません。しかし、福音はイエス・キリストという御方を通して完全に示され(コロサイ人への手紙 2:2-3)、聖書の中で伝えられています(テモテへの手紙二 3:15-17)。ですから、神が「信じるすべての人々の救いのために」行使されたこの「神の力」の根本的な側面を理解することは非常に重要です。
福音とは何ですか?
福音(ギリシャ語の「アイ・アゲリオン」(良い告知)に由来)は、神の永遠の王国の到来を告げる喜ばしい知らせです。そこでは、罪も死も、いかなる悪も存在せず、完全な平和と正義が実現します。しかし、この良い知らせは、人類に深刻な問いを投げかけます。私たちは、この王国において永遠の命と復活を得るにふさわしいのでしょうか。
私たちは神の王国にとって完全に義なる者になれるでしょうか?
神は民に律法を与えました。ですから、人が正しい行いをしようと努めるなら、神によって啓示されたこの律法の戒律をすべて完全に実践すべきです。この戒律は聖書(特に聖書の最初の部分、ヘブライ語の「トーラー」)に含まれています。
しかし、使徒パウロは明確に警告しています。
「律法の行いを行う者は皆、呪われています。『律法の書に書かれているすべてのことを守り行わない者は皆呪われている』と書いてあるからです。」 律法によって神の前に義とされる者は誰もいないことは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。(ガラテヤ人への手紙 3章10-11節)
「律法が何を語っているかは、律法の中にいる者たちに語られていることを私たちは知っています。それは、すべての口が閉じられ、全世界が神に言い開きをするためなのです。律法の行いによっては、神の前に義と認められる人は一人もいないからです。律法によって罪を知るようになるからです。」(ローマ人への手紙3章19-20節)
したがって、律法を遵守することによって神の前に義と認められることは不可能です。律法は、その絶対的な非妥協性を通じて、私たちが律法に完全に従うことはできず、したがって私たちは義人とみなされず永遠の命にふさわしい者とされず、神による永遠の断罪に値することを私たちに理解させます。
神の民に啓示された律法を知らない者も、神の前には等しく罪人です。これについて、パウロはこう言っています。「すべて人を裁く者よ。あなたには弁解の余地はありません。人を裁くことによって、あなた自身も罪に定められているのです。裁くあなたがた自身も、同じことを行っているからです。私たちは、このようなことを行う者に対しては、神の裁きが当然下ることを知っています。しかし、このようなことを行う者を裁き、また同じことを行っている人よ。あなたは、自分は神の裁きを逃れられると思っているのですか。」(ローマ人への手紙 2:1-3)
福音:良い知らせ
しかし、これらの「悪い知らせ」の後、パウロは福音を明らかにします。「しかし今、律法とは別に、神の義が明らかにされました。律法と預言者は、この義を証ししています。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義です。信じるすべての人にとって、実に差別はありません。すべての人は罪を犯して神の栄光を受けていませんが、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、神の恵みにより、無償で義と認められているのです。」(ローマ人への手紙 3:21-24)
義と認められるのは、信じるすべての人にとって、恵みによって、キリスト・イエスを信じる信仰を通してであり、私たちにとっても無償で行われます。しかし、キリストご自身が代価を払われました。「神は、ご自身の義を明らかにするために、キリストの血に対する信仰によって、この義を贖いの供え物として立てられました。」(ローマ人への手紙 3:25)「神は、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことによって、私たちへの愛の偉大さを明らかに示してくださいました。」 (ローマ人への手紙 5:8)
無実であったにもかかわらず十字架につけられて死んだキリストは、人類史を通してキリストを信じようとした人々のすべての罪を負われました。罪を彼らに負わせるのではなく、死からの復活を通して、キリストの完全な正義を彼らに帰されました。パウロは、イエスは「私たちの罪のために与えられ、私たちを義とするためによみがえらされたのです」(ローマ人への手紙 4:25)と書いています。「実際、神はキリストにあって世を和解させ、人々に罪を負わせることなく、和解の言葉を私たちのうちに授けられました。ですから、私たちはキリストの使者として行動します。まるで神が私たちを通して促されたかのようです。キリストの御名によってお願いします。神と和解してください。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちがキリストにあって神の義となるためです。」(コリント人への手紙二 5:19-21)
私たちの善行は私たち自身の救いには貢献しない
義認は「律法の行いとは別に、信仰によって行われます」(ローマ人への手紙 3:28)。ですから、律法の行い(神によって明確に命じられ、義であり善であるとみなされるもの、ローマ人への手紙 7:12)でさえ私たちを義と認めるのに役立たないのであれば、他のいかなる行いも私たちを義と認めることはできません。これは、神の前で人間のいかなる傲慢も排除するためです(ローマ人への手紙 3:27; 4:2; コリント人への第一の手紙 1:26-29; ガラテヤ人への手紙 6:14)。
しかし、善行が自分自身を救う助けにならないのであれば、福音は罪への誘いではないでしょうか。
パウロは福音が人々に罪を許すということを否定し、こう書いています。「では、どうなるのでしょうか。私たちは律法の下ではなく恵みの下にあるからといって、罪を犯すべきなのでしょうか。決してそのようなことがあってはいけません。あなたがたは知らないのですか。服従のために奴隷として自分を差し出すなら、あなたがたは、その服従する相手の奴隷となり、罪の奴隷となって死に至り、あるいは従順の奴隷となって義に至ります。しかし、神に感謝します。あなたがたは罪の奴隷であったにもかかわらず、あなたがたに与えられている教えの規範に心から従い、罪から解放されて義の奴隷となったのです。」(ローマ6:15-18)。ヤコブ2:14-26は、自分は信仰を持っていると言いながら、実際には生きた信仰ではなく死んだ信仰を持っていることを示している人々の状況について語っています。ヤコブは、信仰を告白する人々は、アブラハムとラハブのように、行いによって義とされていることを実証しなければならないと教えています。善行は、私たち信者が行うために神によって準備されています。「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われたのです。これは、自分自身から出たものではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。私たちは神の作品であり、キリスト・イエスにあって善行を行うために造られました。神は、私たちが善行に歩むように、その善行をあらかじめ備えてくださったのです。」(エフェソの信徒への手紙 2:8-10)。善行は神の栄光のためにあります(マタイによる福音書 5:14-16)。